不思議の国の有田
江戸仕草


第11回 当て逃げ

 有田からの妨害電話はかかってこなくなった。アリスも鏡の国に入っちまったかな、やっぱり電波の強い方が勝ちだ、などど鷲尾は思っていた。
 そんなある夜、電話のベルが鳴る。今、何時だと思ってんだ、まったく。すぐに留守番電話が応答する。発信音の後にメッセージを…。
「もしもし、すみれですけど。」
アリスの野郎だ。こんな夜中に、何の用だよ。
「今、事故を起こしちゃって。どうしよう。」
どうしようって、まずは救急と警察に電話だろ。ちゃんと連絡したのか怪しいな。
「もしもし、いないんですか。いたら出て欲しいんだけど。」
留守電の応答時間が終わると、電話は切れる。追っかけるように電話は鳴る。
「もしもし、すみれですけど。今、現場にいるんだけど、すごく心細くて。ねえ、いないの?」
近くでサイレンの音はしないから、この近所ではないな。鷲尾はそう思いながら、再び眠りに就いた。その晩、電話がかかってくることはなかった。
 数日後、有田からの電話があった。
「何だ、お前。電話するなって言ったろ。」
「お前はないでしょ。」
「いつも公衆から電話してただろ。」
「してないよ。」
「嘘付け。まあいいや。」
「それより、この前事故っちゃったの。」
「ふうん、それで。」
「それで、相談乗って欲しいんだけど。」
 有田は事故の様子を説明し始める。その日の夜中、有田が焼肉屋を出て車に戻ると、停めていたパーキングメーターの前にベンツが停まっていた。車を出そうとした時に、間隔が狭かったこともあってベンツに少しぶつかってしまった。あっ、いけない。あわててバックしたら、今度は後ろに停まっていたBMWにモロぶつかってしまった。早く逃げなくちゃ。すぐに、物音を聞きつけて男が出て来た。ちょっと待って。男は有田の車の前に立ちはだかり、有田の車を止める。そして運転席の横に来る。こういう者ですと言って名刺を渡す。医者か。その瞬間、有田は猛スピードで逃げた。残された男は、呆気にとられていた。三十分くらいして、どうなったかなあと現場に戻り、そこから鷲尾に電話したのだった。
「それって当て逃げだぞ。」
「だって。」
「どうせ、アルコールも入ってたんだろ?」
「もしそうだとしたら、どうなのよ。」
酒気帯びの事故、しかも当て逃げ。行政上は免許取り消し、欠格期間三年ってとこか。刑事上は最高で懲役三年。民事上は損害賠償と慰謝料。
「ちょっとぶつけただけで、懲役なの?」
「だって、警察も呼ばずに逃げてるじゃん。」
「実は、さっき警察から電話があったの。」
 ベンツとBMWの持ち主がナンバーを覚えていて、当て逃げの被害届を出していたのだ。飛回署(とびまわりしょ)から早速お尋ねの電話。いつも通り、自分の非を認めない。私、犯人じゃありませんけど。別に、犯人とは言ってないでしょ。それじゃ、証拠があるんですか。あなた、警察に協力するつもりないんですね。協力も何も、関係ありません。シラを切り通した有田ではある。
「大丈夫かなあ。」
「証拠がないんなら、逃げれるかもね。」
「本当?よかった。」
 しかし、日本の警察を甘く見てはいけない。今度は有田の父親の会社に電話がかかってくる。
「お宅のお嬢さんが交通事故を起こしまして。」
「ええっ。すみれは無事なんですか。」
「怪我はないようですが、当て逃げでして。」
事故の状況を説明。出頭するよう親御さんからも説得して下さい。大変、ご迷惑をおかけしました。
 当て逃げを知った有田の父親は激怒する。すみれ、逃げてないで警察行きなさい。知らないわよ。父親の説得にも耳を貸さず、警察へは行かない有田。毎日かかってくる警察からの電話も、留守電にしたままで出ない。ついには呼び出しの手紙が来た。これはヤバいと鷲尾へ電話してくる。
「ねえ、助かる方法ない?」
「助かるって?」
「捕まらないこと。」
「自首して罪を軽くするぐらいだね。」
「嘘。」
「でも、警察が動いちゃったら、もう、自首にはならないんだよ。」
「じゃあ、どうすればいいのよ。」
「警察に、自分は知らないって言ったんだろ。最後まで逃げてれば。」
「それで大丈夫?何とかならない?」
「大丈夫な訳ないよ。俺だったら自首するな。」
「自分ならこうするじゃなくて。」
まともな人間なら自首を勧めるだろう。汚い手でも何でも使うんなら、例の悪徳弁護士に訊けばいいじゃんか。アリスなら得意の賄賂だろうか。
 鷲尾は星野に一部始終を話す。アリスちゃん、根性が腐ってる。これは、逮捕してもらうしかないよ。鷲尾は飛回署に電話することにした。
 飛回署に電話すると、有田の件と言うだけで話は通った。署内でも有名人らしい。事故係の担当は宮本といった。こんなことを言うと失礼かもしれないけど、有田さんは自己主張が強いというか、精神的に少し…。普通の人ならすぐ警察来るんですけど。交通違反ぐらい大したことないと思って罪の意識もないのかな。それとも、車をぶつけたって気づいてないのかな。
 鷲尾は有田が事故を認識していること、現在は無職で銀杏坂の職業訓練校に通っていることを伝えた。そして、捜査を進めて欲しいと告げ、電話を切った。
 鷲尾と星野は、結婚を考え始めている。二人してブライダルフェアに出かけたり、披露宴は誰を呼ぶのかと相談したり。その前にまずは婚約でしょ。結納か、面倒くさいな。仲人はやっぱ上司かな。面倒くさいと言いながらも、人生の門出に向けて楽しそうであった。
「二次会は船にしようよ。」
鷲尾は当然のように言い放った。

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