不思議の国の有田
江戸仕草


第4回 煙

 有田からボロクソに言われた鷲尾。しばらくはおとなしくしておこうと、仕事に打ち込む日々であった。どちらからも連絡を取らないまま時間は過ぎていく。先に折れたのは有田だった。
 鷲尾がいつものように十一時半過ぎに帰ってくると、有田が家の前で待っている。
「今晩は。お久しぶりです。」
「あ、アリス。来てくれたんだ。」
「あのう、これ。」
有田の手には書類カバン。
「何、そのカバン?」
「あ、パソコン。こういうの詳しいでしょ。」
カバンの中には旧型のノートパソコン。手ぶらじゃ来れないから、これは口実だな。
「入りな。」
部屋に入ると、有田は早速パソコンをカバンから取り出す。
「ねえ、インターネットの使い方教えて。」
「インターネットって、このパソコンで?」
このマシンでインターネットはちと困難だぞ。
「もちろん、決まってるじゃない。」
「このマシン、ちょっと古いなあ。」
「古いとダメなの?」
「いや、メモリとか沢山付けないと動かないな。」
「何よ! 私のパソコンがボロいってこと?」
「そうじゃないけど。」
「じゃあ何とかしてよ!」
「これだったら、新しいの買った方が安いよ。」
「ふん! じゃ、インターネットなんかいい!」
すぐにへそを曲げる有田。なだめようと冷蔵庫からジュースを出す鷲尾。
「まあ、ジュースでも飲んで。」
「ダメ!」
有田が突然叫ぶ。
「パソコン使ってる時、ジュースとか飲んじゃいけないって、習わなかったの?」
「習ってないよ。」
「私のパソコンにこぼさないでね!」
仕方ない。二人は冷蔵庫の横でジュースを飲む。
「ねえ、パソコン止めて、温泉行かない?」
有田は唐突に提案する。結局、真夜中の十二時過ぎというのに、二人は有田の車に乗って伊豆へ向かって高速を走り始めた。
「覆面パトカー見つけたら教えてね。」
「アリス、スピード出し過ぎだよ。」
「大丈夫、捕まらなきゃ。」
なんと、時速百五十キロで巡行中。最高速度は時速二百キロ以上。こんなんで捕まったら、免停どころか現行犯で逮捕だぞ。レーダー探知器を装備してあるっていっても、飛ばし過ぎだ。
「鷲尾さん、伊豆、行ったことある?」
「うん、前にあるよ。」
「誰と?」
「友達と。」
「友達って、前の彼女でしょ。」
「…うん。」
有田はそれっきり黙ったまま。鷲尾もしまったと思ったが、言い訳をすることもできない。
「ねえ、何か言って。」
「何を?」
「何か喋って。」
とりあえず、何かを話せばいいんだな。
「アリス、しし座流星群って知ってる?」
「バカ!」
有田はへそを曲げ、いや、激怒している。
「何で嘘でもいいから、男の友達って言わないのよ!」
この間と同じじゃないか。すぐ怒鳴るし、車はスピード出してるし、鷲尾は怖くて何も言えなくなってしまった。
「前の彼氏だったら、そういう時、絶対、男に決まってるって言ったよ。」
鷲尾に激怒するくせに、有田は昔の彼氏の話を始める。誰かさんみたいに約束破らないで、一日に何回も愛してるって電話くれたし。
 再び沈黙。三時間程経つうちに、もう四百キロ以上も走っていた。高速を降りて、目的地と思われる温泉の辺りに着く。
「どこだったかなあ。こっちかなあ。」
夜の山道は暗くてよく分からない。
「はずれかな。」と鷲尾がつぶやくと、有田が
「うるさいわねえ、人が真剣に探してるのに。」
五、六分走る。灯りの下には水蒸気が出ている。
「こんな感じだったんだけど。あ、ここだ。」
どうやら有田の目指していた温泉のようだ。
「ここ、ここ。わあ、鷲尾さんと来ちゃった。」
とりあえず休戦。車を降り、細い山道を歩いて行くと、古びた旅館がある。これが件の温泉か。
「金田一耕助の世界でしょ。」
うっそうと繁る山中のひっそりとした旅館。確かに世捨て人でもいそうな雰囲気。有田は辺りの様子をうかがい、通用口の扉を開け、中に入る。手招きする有田に付いて、鷲尾も中に入る。
「いいのか、勝手に入って。」
「平気、平気。」
古びた廊下はギシギシと鳴る。見つからないようにそろそろと歩き回り、浴場へ着く。
「混浴だから、入ろう。」
入ろうとすると、中から人が出てきた。夜明け前から温泉に入る人もいるんだ。
 壁には二、三メートルもある天狗のお面。武田信玄の隠し湯だったとか、傷痍軍人の湯治場だったとか、大昔の落武者がいたとか。湯煙の中、二人はゆったりとお湯に浸かった。
 温泉から上がり帳場へ行くと、旅館の人らしき人がいる。あ、やばいぞ。ところが有田は
「ねえ、パンフレットもらってよ。」
勝手に温泉に入った上に、パンフレットまでもらうのかよ。鷲尾は旅館の人に挨拶して、パンフレットをもらった。
 旅館を出て、高速に向かっていくとちょうど日の出だ。きれいだなあ。そして行きと同じように百五十キロで飛ばして帰る。
 アイスが食べたい。有田は途中のサービスエリアで車を停め、エンジンを切った。すると突然、エンジンルームから煙が出てきた。
「あ、煙出てきた。どうしよう。」

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