メビウスの輪
 星 期一


10.老人

 山沢が会社へ行こうとマンションから出ると、また例の車が停まっている。こいつ、一晩中停まってたのか。一一〇番してやるか。懐から携帯を取り出してボタンを押そうとすると、パトカーが現れる。誰かが駐車違反で通報したんだろう。
 パトカーから警官が降り、例の車に近づく。
「お早うございます、警察ですが。」
車の中にいる奴は警官に何かを言っている。
「じゃあ、すぐに出して下さい。」
警官が車から離れると、警官の指示に従って例の車はすぐにどこかへ行ってしまった。
 会社から帰ると例の車。そしてパトカーも停まっている。今朝、注意されたばかりじゃないか。この運転手も懲りないなあ。そう思っていると、マンションの玄関から警官と一緒に人相の悪い男が出てきた。刑事か。たかが駐車違反ごときで刑事さんのお出ましか。正司の事件でもしっかりやってくれよ。
 と思ったが、よく見ると人相の悪い男は手首を隠している。逮捕だ。駐車違反の犯人なのか。パトカーが出発した後、例の車はレッカー車で移動されてしまった。
 エレベーターを降り、部屋へ向かうと、その階の住人が立ち話をしている。
「今晩は。」
「あ、山沢さん、お帰りなさい。」
「パトカーが停まってたでしょ。」
「あれ、駐車違反で逮捕ですか。」
と山沢が訊ねると
「ストーカーだったのよ。」
では、盗聴騒ぎも奴の仕業だったのか。
 後の新聞の報道によれば、逮捕されたのは江頭進太容疑者(二七歳)。江頭容疑者は自動車販売会社社員Aさん(二一歳)に好意を持ち、車で後をつけて盗撮したり、Aさん宅に盗聴器を仕掛けた疑い。警察では偽名を使ってAさんの住民票を取ったとして、有印私文書偽造の疑いでも捜査している。
 山沢の家に別の盗聴器を仕掛けたのも、この江頭だった。自分の身に捜査の手が及ぶのをおそれ、山沢らの捜査を妨害していたのだろう。
 野馬から電話がある。
「そいつが、絶対怪しいと思ったのに。」
「盗聴してるのはこいつだったけどな。」
「ところで、象の鼻は行ったんですか。」
「うん、行って来たよ。」
 山沢は駐車違反のストーカーは、象の鼻の奴だと推理していた。そこで、とりあえず象の鼻の支部があるビルに帰りに立ち寄ったのだ。しかし、例の車は停まっていなかった。『ご自由にお取り下さい』と書いてあるチラシを一枚手に取ると、そのビルを後にした。ただそれだけだった。
「山沢さん、他に不審な人いませんか。」
例の車に気を取られていたが、そう言えば駐車場の前で夜中にたむろしている若者の一団や、ウロウロしているオヤジがいた。
「そりゃ、不審と言えば不審だけど。」
「ちょっと、若者狩りでもしますか。」
「どういうことだい。」
「まずは、うろついてるオヤジですよ。」
「オヤジがいるって何で知ってるの。」
「ソースは明かせませんけど。」
「新聞社からの情報か?」
「まあ…。」
 数日後の土曜日の夜、山沢、野馬、原田の三人が集まった。マンションのそばの駐車場の前には、二十歳くらいの奴らが五、六人たむろしている。明け方まで道路に寝転んでダベッていたり、サッカーボールを蹴っていることもある。特に大声を出したり車を吹かしたりといったことはしないので、今まで警察の出番はなかった。
「お、来たぞ。あいつだ。」
七十歳くらいに見える男が若者の集団に近寄っていく。しばらく話をした後、そこから立ち去る。山沢らはその男の後をつけて行った。
 数分歩くと、男は古ぼけたアパートに入っていく。三人は男に駆け寄る。
「今晩は、ちょっといいですか。」
男は、突然駆け寄ってきた三人に驚いた様子である。慌てて階段を掛け上ろうとする。
「待って下さい。」
原田が男の腕をつかむと、男は観念したように立ち止まった。
「済みません、あと三日待って下さい。」
「何だい、あと三日って。」
「それまでにはお金は何とかします。」
なんと、借金取りと勘違いしていたようだ。
「俺達、借金取りじゃありませんよ。」
それを聞いて男は安心したようだ。
「一つお訊きしたいんですけど。」
「あんた達、刑事さんかい。」
「違いますよ。」
一瞬こわばった顔がおだやかになる。
「象の鼻をご存じですね。」
また顔色が変わった。やはり関係あるぞ。
「ここでは何ですから、部屋へどうぞ。」
三人は男の部屋へ連れて行かれた。
 六畳一間、トイレ共同、風呂もない、そんな男の部屋には三人の先客がいた。
「ようこそ、コスモスペースへ。」
「それじゃ、またよろしく。」
三人の先客は帰っていった。
「あんた、コスモスペースの人かい。」
「いいえ、あっしは何も知りませんが。」
「あのマンションで何やってたんだい。」
 三人の追求に男はポツリポツリと話し始めた。正司の飲んだ風邪薬を持っていること、正司の死んだ日のアリバイはないこと、借金取りに追われていること、コスモスペースと象の鼻の関係者から金をもらったこと、などが分かった。
「おじさん、あんたが殺ったのかい。」
「あっしは、何も。」
この男が正司に薬を手渡したり、踊り場から突き落としたのではなさそうだ。突き落とすだけの力なんかありそうもないし。
「じゃ、帰ろうか。」
山沢の一言をきっかけに、三人は男の部屋を出た。
   つづく    (C)二〇〇〇 星 期一

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